らぷらた音楽雑記帳07*西村秀人・南米音楽サイト『カフェ・デ・パンチート』

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らぷらた音楽雑記帳

#007 あるタンゴ歌手の「軌跡」と「奇跡」

2003.03.26

その歌手を私が初めて見たのは1995年8月、クルブ・デル・ビーノというライヴ・ハウスでのことだった。「カジェホン」「トラスノチャンド」「バホ・ベルグラーノ」といった久しく忘れられていた、下町気分あふれるタンゴの数々を、バンドネオン1本の伴奏でじっくりと語りかけてくる。ちょっと足の不自由な、この小柄の年配歌手について、それまで名前すら聞いたことがなく、一体どこから出てきたのか不思議で仕方なかった。
その後もいつも彼の姿は「クルブ・デル・ビーノ」にあった。CDも録音するようになり、自分の店を持ち、映画出演も果たした。しかし2000年5月、突然世を去った。遅咲き歌手の栄光はわずか5年間に過ぎなかった。
取材に訪れるうち恋に落ち、その歌手の最後の愛人となったジャーナリストが書いた彼の伝記(というか覚え書き)が手元にある。この本を読み、私は彼の「軌跡」と「奇跡」を知ることになる。彼は単に足が悪いだけではなかったのだ。生まれた時から血が凝固しない血友病に冒されていたのである。8歳の時大好きなサッカーで足に怪我をし、5年間ギブスをつけてやっと歩けるようになった。20歳の頃、足の痛みに耐えかねて医者から鎮静剤をもらったのをきっかけにヘロイン中毒にも陥った。その後歌で食べていけない彼はくじ売りをしてしのいだ。すべての客の顔と好きな数字を覚えていた。そらで300 曲の歌詞を覚えていた彼には簡単なことだった。
その歌手が相棒となるバンドネオン奏者ピサーノと出会ったのは1974年。失意の中入った酒場で弾いていたのがピサーノだった。ピサーノのバンドネオンははっきり言ってうまくはない。でもガルデルのギター伴奏のように、ぴたっと歌に合わせることが出来た。でも2人に希望の光が差すのはそれから20年後の94年、前述のクルブ・デル・ビーノのオーナーに見い出された時だった(そう、私が見たあの時の歌手はやっと輝き始めた頃だったのだ)。
その歌手は生きることと歌うこと以外には対して興味もなかった。ある日アラン・パーカーからマドンナ主演の映画「エビータ」への出演依頼があったという。でもマドンナはもちろん、パーカーは「万年筆のパーカー」しか知らないから断った。
その歌手は4枚のCDを残した。でもスタジオで録音された彼の歌はステージ上の魅力の半分も伝えていないかもしれない。最晩年、熱狂的なファンがライヴ録音を3枚組CDで発売した。1枚あたり20分ちょっとしか入っていない、ブックレットのサイズが大き過ぎてケースの中に入らないので、手作りのボール紙の箱の中に入っているという、思いっきり不器用な自主制作盤。でも彼の魅力を一番伝えているのはこのCDである。
両親から20歳まで生きられないだろうと思われていたその歌手は結婚し、息子をもうけ、歌手として成功する夢も果たした。女性とウィスキーを愛し、誰からも愛された。煙草も酒もやらないのに39歳で肺ガンで早逝した父親より16年も長生きした。
その歌手の名はルイス・カルデイ(LUIS CARDEI)。芸名なのか本名なのかは周りにいる人間も知らなかったそうだが、CARDEIというスペルはちょっと書き加えるだけでGARDELになる。偶然にしても、意図的だとしても、タンゴの神様ガルデルこそタンゴと信じて疑わなかった彼にはそれは宿命だったのかもしれない。
文:西村秀人