らぷらた音楽雑記帳06*西村秀人・南米音楽サイト『カフェ・デ・パンチート』

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らぷらた音楽雑記帳

#006 「海」という名のピアニスト

2003.03.19

昨年9月、2年ぶりにブエノスアイレスを訪問してきた。しっかりCD/レコード屋回りもやって来たのだが、期せずして今まで名も知らなかったアーティストのカセットとLPを連日入手した。演奏者はシルビア・マル(Silvia Mar) 、LPは1970年代、カセットは1982年のもので、いずれも伴奏なしのピアノ・ソロによるタンゴ集である。
デル・マル(Del Mar)という名字は時々あるが、芸名にしてもただ Mar「海」という名字は珍しい。「海の上」ならぬ「海という名の」ピアニストである。
日本に帰って聞いてみると、決してうまくはないが実にシンプルで素朴な味わいがあり、長年ソロで弾いてきた人ならではのスタイルを有している。選曲も「スール」「両親の家」などメロディの美しさを大切にしたもので、テンポを落としてじっくり演奏、1曲1曲がセピア色の風景画を見るような、独特のトーンを生み出している。"Frente al mar" (「海に向かって」)も入っているが、これは彼女のテーマ曲といったところだろうか。
このピアノを聞きながら、ふと想い出したことがあった。13年前、ブエノスアイレスを初めて単身で訪れた時、友人に誘われて"Los Teatros de Buenos Aires" というレストランに行った時の事である。かつてブエノスアイレスの劇場を沸かせた数々の俳優の写真・肖像画が壁一面に飾ってある店だったが、中央にはピアノがあった。さらさらと控えめに映画音楽など弾いていたピアニストに、私は好きだったエドゥアルド・アローラスの古典タンゴ「ラ・カチーラ」(La cachila)をリクエストした。今にして思えば決してやさしいリクエストではなかったはずだが、そのベテラン女性ピアニストは打って変わってメリハリの効いたスタイルで見事な演奏を披露してくれた。まだお客も少ない時間帯だったが、何よりその演奏に大きな拍手を送っていたのが初老のボーイたちだった事はよく覚えている。
あの時のピアニストはシルビア・マルではなかっただろうかとふと思ったのである。あの時は写真も録音も取らず、ただ感激していただけで確認のしようもないが、女性の年齢はほぼぴったりだと思う。果たして今も存命かどうかすらわからないこのピアニスト、華やかな世界とは無縁だろうが、今でも好きなメロディを弾いているだろうか。レストランの方はもうなくなってしまったかもしれないが。
文:西村秀人