1950年、ホセ・バッソ楽団でデビュー、その後アルマンド・ポンティエル楽団でも歌った、タンゴの黄金時代を知る名歌手。独特の甘く高い声と節回しをもち、一聴してそれとわかる語り口を持つ。私が会ったのは2000年、長い友人であるオルケスタ・エル・アランケのコントラバス奏者イグナシオ・バルチャウスキーが「明日ブラジルの観光客のために特別編成で演奏するから来ない? サプライズもあるよ」というので行ったときのことである。場所は、現在はコンサートをやらなくなってしまったが、当時は毎週末素晴らしいショウをやっていた「クルブ・デル・ビーノ」。その日は金曜日でブラジル人観光客の貸切。イグナシオ、ラミロ・ガージョ、カルロス・コラレス、アンドレス・リネツキーという強力な若手クアルテートで、「ネオタンゴ」のアレンジをクアルテート用に直したものをガンガン演奏。そこに登場したのが何とオスカル・フェラリだった。リハーサルの時に「声であなたとわかりましたよ」(Le conozco por la voz.)と言うととても嬉しそうにして、いろいろ昔のレコードの話などしていたら、おまえのために十八番である「ベンガンサ」と「セラ・ウナ・ノーチェ」を歌おうといって、若手4人に急遽相談。でも全員曲を知らなくて、譜面なしでは実現不可能。結局その日は「コモ・ドス・エクストラニョス」「赤インキ」「淡き光に」などを歌い、若手の伴奏は時々危なっかしいところもあったけど、大きな拍手喝采を浴びていた。
驚いたのは本質的に歌が全く変わっていなかったこと。次回会う時にロングインタビューをすることを約束、しかし、かなわなかった。フェラリは2008年8月に亡くなり、私がそれを知ったのは映画”Café de los Maestros”のアルゼンチン盤DVDで、映画が終わった後の最後の追悼の辞であった。
フェラリは自分で書いた本をあとでホテルに届けてくれた。自分との共演者で先に逝ってしまったアーティストの想い出と、自作の詩をつづった本だったが、何だか死を予感していたかのような、ちょっと運命主義者的な人だったのかも知れない。晩年はかなり多くの人に歌を教えていたようで、その芸は次の世代に受け継がれていることだろう。