自慢めいてしまうが、日本人でラグリマ・リオスのインタビューを取ったのは後にも先にも私1人のはず。それも「Café de los Maestros」の話が出る何年も前のことだった。私は以前からウルグアイのタンゴ史に興味があり、彼女のことを知ったのはたまたま日本で入手した1970年代の彼女のカンドンベの米盤LPだった。やがて彼女はタンゴ歌手でもあるということ、女性で黒人のタンゴ歌手はアルゼンチンを含めても彼女しかいないということを知り、その頃久しぶりにラグリマが新しいアルバムをウルグアイで出しており、ちょうどモンテビデオ訪問の折にウルグアイ在住の友人に連絡を取ってもらい、インタビューをさせてもらったのだった。ウルグアイではアルゼンチンと異なり、アフリカ系文化がさまざまなところに影響を残しているが、実際に見た目ですぐ黒人とわかる人の数はそれほど多くない。
ラグリマの方も日本からわざわざ日本人が取材に来たことには驚いていたようだったが、名付け親でもあるアルベルト・マストラのこと、ヨーロッパをツアーした時のこと、かつてモンテビデオにあった黒人文化の象徴的建物だった「メディオムンド」のこと(この集合住宅はラグリマの代表作「タンゴの黒真珠」のオリジナルジャケットにも登場する。軍事政権が1970年代に強制的に取り壊してしまい、今は別の建物が建っている。しかし数年前メディオムンド跡地であるという説明を書いた看板が立つようになった)などたくさんの話をしてくれた。
その後もモンテビデオを訪れる度に挨拶にいっていたが、ある年、急に目が見えなくなって医者に行ってきたばかりだ、と言っていたことがあったり、その頃から健康状態がよくなさそうであった。翌年のカーニバルには元気な姿をみせており、映画出演の話も聞いたので元気になったかなと思っていたところ、2006年に世を去ってしまった。
録音の多くはウルグアイのレーベルに残されており、オムニバスにだけ収録されている音源も多いので、彼女の優れた録音が手軽に入手できる状況にないのは残念。CD “Café de los Maestros”では「私のギター」(Mi vieja viola)を歌っているが、これはウルグアイの吟遊詩人ウンベルト・コレアがつくったタンゴで、「たとえ名声も声も失おうとも、声が続く限りギターと共に私は歌っていく」というホロっとさせる内容。
ラグリマの死後、コンサート・ツアーには代わりとして同じウルグアイの女性歌手ニーナ・ミランダが参加した。映画には登場しないが、ウルグアイで最も有名なタンゴ楽団ドナート・ラチアッティ楽団の専属歌手として有名になった人で、1950年代後半に独立してソロ歌手としてアルゼンチンでも成功、その後すぐ家庭に入り、芸能界を退いた。したがって今回の復活は50年ぶり。アルゼンチンでは新録音も出ている。
しかしラグリマのように特別な存在は誰にも替えがたいという気がする。最後のモンテビデオ訪問時に会う時間がなかったことがつくづく惜しまれる。