伝説のマエストロ1:オスバルド・レケーナ*西村秀人・南米音楽サイト『カフェ・デ・パンチート』

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Mis Maestros en el recuerdo 
想い出のマエストロたち

por HIDETO NISHIMURA

<1>オスバルド・レケーナ(ピアノ、指揮、編曲)

Osvaldo Requena

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映画には多数のマエストロが登場するが、このマエストロがいなかったら絶対にCD録音も映画もかなわなかった、という意味で真のマエストロといえるのはオスバルド・レケーナだったかもしれない。レケーナは初めトノディスク、その後ミクロフォン・レーベルのディレクターとして数え切れないほどのアルバムで歌手の伴奏を担当した。多くはその歌手がかつて専属として所属していた楽団のスタイルを取り入れた編曲を巧みに取り入れていた(もちろんコピーではなく、レケーナらしい工夫が散りばめられている)。そんなマエストロだからこそ、映画に出演する個性あるマエストロたちの音楽をマエストロに代わって譜面にし、全体をまとめることが出来たのである。

私がマエストロ・レケーナに初めてあったのは1987年、京王プラザホテルに自己のクアルテートで長期出演している際だった。出演場所でも挨拶したが、その後横浜のアマチュア・タンゴ・グループに稽古をつけにいった時にも会うことが出来た(実際にはバンドネオンのダニエル・ビネリが教えに行くのについてきた感じだったが)。憶えているのはプグリエーセの「ボルドネオ・イ・900」を練習していた時に、「今日はめがね忘れちゃったからなあ...」とかいって弾くのをやめていたこと。さすがのマエストロでも「ボルドネオ...」を初見で弾くのは厳しかったのだろう。何となくごまかしたようにレギュラーのピアニストと交替していた。その時に日本サイドで制作した彼名義の名作アルバム「気まぐれな秋」にサインをもらったはずだ。

その後レケーナのステージを見ることはたびたびあったが、話すような機会はなかった。しかし2009年、民音タンゴ・シリーズでフェルナンド・スアレス・パスと共に来日したレケーナに名古屋でインタビューする機会を得た。寡黙なスアレス・パスとは対照的によくしゃべってくれて、実に面白いインタビューだった。その後一緒に食事をし、大須観音を一緒に観光、マエストロは名物の大須チキン(ブラジル式のフランゴ・アサード)を買ってホテルでつまんだようです。

同年8月、私はブエノスアイレスを訪れる機会を得、マエストロにも連絡を取った。あいにく仕事で国外にいて、会えたのは私が日本に帰る最終日の昼。アルゼンチンの著作権協会SADAICで待ち合わせをして、レケーナは自分の用事を済ませると上の階に連れて行ってくれた。そこにはオラシオ・サルガン、ビクトル・ブチーノ(1953年に藤沢嵐子が初のアルゼンチン公演を行った際に伴奏を担当した指揮者・編曲家)、アティリオ・スタンポーネ、ホセ・コランジェロがいてレケーナは彼らと写真を撮ってくれたのだ。その時マエストロに、レオポルド・フェデリコとオラシオ・マルビチーノが自伝を出したんだから、マエストロも本を出すべきだよ、という話をした。すると「だったらおまえが書いてくれよ。資料は渡すから。」...喜んで引き受け、次回アルゼンチンを訪れた際には本のための打ち合わせの時間をたくさんとるつもりだった。

 今年の3月25日、レケーナは手術中の事故で世を去ってしまった。私と妻はちょうどアグスティン・ペレイラ・ルセーナのツアーの真っ只中で、あまりインターネットにもアクセスしておらず、そのことを知ったのは4月に入ってからのこと。申し訳ない気持ちで一杯になった。

あのSADAICで会った日、旅行の最終日なので荷物をパックした後だろうと察してくれたのか、カメラを持ってこなかった私の代わりにマエストロたちとの写真を撮影し、帰国後すぐその写真をちゃんと電子メールに添付して送ってくれたマエストロの細やかな気遣いに答えられないのがとても残念でもある。私にとっては忘れられない写真となってしまった。

 レケーナ亡き後、カフェ・デ・ロス・マエストロスのオーケストラは別の指揮者を向かえて継続するとプロデューサーのグスタボ・サンタオラージャは語っているが、実際それはかなり難しいのではないかと個人的には思っている。